安全保障関連法案と集団的安全保障

[山内康英] 2015-07-16 00:00:44

安全保障関連法案が15日午後、衆院特別委員会で採決されました。以下はその前日に執筆されたこの法案にまつわる論考です。

1, 現国会の安全保障関連法案と集団的自衛:現実主義者の観点

現国会の安保関連法案の審議は、日本の集団的自衛権の行使如何を契機とするものですが、委員会の質疑を見るかぎり、肝心の関連法案と集団的自衛がどのように関連しているのかは、かえって分かりにくくなっています。この資料は、現在の安保関連法案の審議と集団的自衛の関係について私見を述べたものです。

安倍首相の10日の衆院平和安全法制特別委員会の発言は、共同抑止としての集団的自衛の定義そのものになっています。

首相は集団的自衛権が行使できる「存立危機事態」の認定について(1)米国への攻撃が発生、(2)攻撃国から、日本にミサイル攻撃をする表明やそれを示唆する言動があり、日本への攻撃が予測されるか切迫している状況

(2)の場合には、日本に対する攻撃国に対して、日米安全保障条約により米国が集団的自衛を発動しているでしょう。これに(1)をあわせて集団的自衛を双務的(mutual)にするのが通常の在り方です。これは吉田首相がアイゼンハワーとダレスを相手にして日本の再軍備を拒否した際に、また岸内閣が60年安保で、佐藤内閣が70年安保で米国との同盟関係を国会の政治課題としたときに、つねに背景にあった問題です。日本の現行の集団的自衛(=日米安全保障条約)は、米国の他の集団的自衛の取りきめに比して片務的(partial)になっているのです。ちなみにお隣の米韓相互防衛条約(Mutual Defense Treaty between the United States of America and the Republic of Korea)は、立派に双務的なものになっています。

 安倍首相のイニシアティブの根底には、まず現在の東アジアにおける中国の台頭と脅威を前提として、米国との安全保障の連携を明確にするために、集団的自衛=同盟関係をより双務的にしようという意図があるものと考えられます。

次に現在の国会の審議についてですが、このような議論は集団的自衛=同盟関係の具体化に必然的にともなうものです。本質的に類似した議論は、冷戦時代のNATO各国でもさかんに行われていました。たとえばNATOのニュークリア・シェリングについて、オランダ国内の基地に対する米国の地対地戦術核ミサイルの配備反対運動はオランダの国論を文字通り二分しました。

集団的自衛は、集団的自衛のもとにある同盟国に対する攻撃を自国に対する攻撃と同様に見なすことによって、全体としての抑止力を向上させる体制です。ある意味で参戦をオートマティックにすることにより、抑止力を向上させる体制ですから、巻き込み・巻き込まれは必然になります。実際には、東アジアにおいては、日米安全保障条約により日本が米国を巻き込んでいる、というのが実態です。

この議論が何故、分かりにくいのか、というと次のとおりです。この点について政府=自民党の方針は60年代から現在まで一貫しています。つまり、それは他の国と同じ双務的な集団的自衛によって米国の戦争に参戦する義務を負うことを国民に説明することは不可能だと判断していると推察される、ということです。実際に、ほとんどの日本人は、日本が米国の世界戦争に非‐受動的・非‐限定的に、つまり積極的・全面的に参加する義務を自動的に負う、と考えたとたんに思考停止してしまうでしょう。この議論をオープンに始めるのはあまりにもリスキーで、したがって国会の論戦に乗りません。実際にこの問題は、法律論的・演繹的・ゲーム論的に考える場合にはオープンエンドで、十分な確度をもって答えることは出来ないのです。

ここで重要になるのが、集団的自衛のプラットフォームによって共同抑止が地域的には成立する、という歴史主義的・経験的・実践的な考え方です。集団的自衛(collective self- defense)は、国連憲章第51条が規定するもので、地域的安全保障=同盟関係によって各国の個別的自衛(self-defense)を補完・強化しようとするものです。

18世紀の国民国家体制(国家化Ⅱ)の成立以降、国際社会の安全保障はしだいに総力戦体制(total war system)によって担保されるかたちに変化しています。とくに1949年以降の国際社会の安全保障は、核抑止体制という究極的な総力戦体制による一見不安定な、しかし体制を異にする大国同士にあっては、これ以外にあり得ないパワーバランスによって維持されるようになりました。

第二次大戦の経緯から非核兵器国となった日本にとって、米国との集団的自衛=同盟関係の強化によって個別的自衛を補完・強化する以外の選択肢はありません。実際に49年から91年まで続いた東西冷戦で、日本の国軍である自衛隊は、極東でソ連軍を封じ込めるために重要な戦略的機能を果たしたのです。60年安保の岸内閣の選択、70年安保の佐藤内閣の選択は、この端的な表明であり、安倍内閣の選択はその継続に他なりません。しかしながら東西冷戦が、欧州のNATO正面、つまり西ドイツとポーランドの国境で闘われたのに対して、今回の正面は南シナ海にある点が様相を異にしています。

蛇足ながら付け加えれば、国連憲章は集団的自衛を、集団的安全保障体制(collective security system)が成立するまでの過渡的な国際社会の在り方だと考えています。集団的安全保障体制は、この体制をviolateする国家を国際社会全体=国連軍で鎮圧しようとする概念です。普通そうは言いませんが、これは国際社会の全構成員が単一の集団的自衛(collective self-defense)に参加することによって抑止概念を最大化させようとするものだ、と言えるかもしれません。このとき人類は安全保障の歴史において、はじめて国民国家体制を止揚することが出来る訳です。(国家化Ⅲ)まぁ、これが現実化するのは最後の全体主義大国が民主化し、これに続く東アジアの政治的混乱が終息してからですが… このような議論は、一部の専門家のためのものであって、一般の公衆の説明とするのは、あまりにも機微で、したがって国会の議論に乗らない、と政府が考えたとしても不思議はありません。

余談次いでに付け加えるならば、米国のトンデモ戦争ですが、その巻き込まれに対処する方法はいろいろあって、たとえば、戦争行為を国会の議決事項にしておいて、「国会が開かれていない」と言い張る方法が考えられます。あるいは、「今回の米国の戦闘行為は国際問題を解決する外交的手段であって、米国に対する攻撃とはみなされないので、日米安保の集団的自衛の発動の要件に該当しない」という言い方もあるでしょう。実際、83年の米国のグレナダ侵攻に付き合う義理も必要も日本にはありません。そんなことを米国は考えもしなかったでしょう。あまり不義理をすると米国人は怒るかもしれませんが、それが国際社会の大人の付き合いというものではないでしょうか。

2, 安保関連法案と現国会の見通し:現実主義者の希望的観測

それでは安保関連法案が現国会で成立する見通についてはどうでしょうか。以下ではこれについて国会中継などから推察しました。結論から言えば、60年代の社会党左派はすでになく、急先鋒の共産党、後続する民主党も採択を阻止するには力不足のようです。安倍政権は、91年以降の日本の国際貢献の実績を説明に使って、安全保障関連法案を何とか今国会で通すのではないでしょうか。

本稿の筆者の私見は、現在の安倍政権の安全保障政策は、歴史的に見て正統であり、戦略的に見て適切だ、ということです。湾岸戦争後の海自掃海部隊の派遣、カンボジアPKOの陸自工兵部隊の派遣も結局無駄ではなかったようです。ひょっとすると中国すら安堵しているかもしれません。それは日米の共同抑止体制の強化が戦争を始めないことの国内的な理由になり、米国との同盟関係が日本の個別的自衛による軍事力強化を不要にするからです。同様に、日本との同盟関係は米国の個別的自衛による軍事力強化のある部分を不要にします。自国の首相をファシスト、馬鹿もの呼ばわりするのは、いい加減に止めてはどうでしょうか?

しかしながらすでに述べたように、集団的自衛と現在の東アジアの戦略環境を主軸とする説明は国会の議論に乗らないとの判断を現政権は踏襲し、あくまでも91年以降の国際貢献の実績から説明する方針を採っています。また東アジアの戦略環境については、中国に言及することを避け、北朝鮮のミサイル発射問題を具体的な脅威として取りあげています。自衛隊の派遣と北朝鮮の核実験は実際にあったことですから、一概に野党も否定できないでしょう。逆に野党側が、かつての民社党のように本質論で論戦を仕掛ければおもしろいのですが、政府=自民党は、これには乗ってこないでしょう。

というわけで、この資料の観測が正しければ今後何百時間審議しても、説明は本質論の周りを周回する堂々巡りになります。まぁ、いたずらに公衆の危機感をあおるのは、アベノミクスの現状からみても得策ではありません。それにしても戦略の本質論と公衆に対する説明の乖離は不可避なのか、という疑問は残るでしょう。この疑問は、民主主義と熟議の問題として根深いのです。この乖離は、東西冷戦期に日本の安全保障政策に関する国会審議にあったのと同じものです。それとも日本人は、建前と本音を使い分ける劇場国家主義を徹頭徹尾演じ続けるつもりなのでしょうか?

それでは、具体的な委員会の遣り取りはどのようなものでしょうか。日本共産党の一般公開資料と国会中継から、10日の衆院安保法制特別委員会の遣り取りの一部を文章に起こしてみました。

穀田議員
イラク特措法事態では、イラク人を殺傷する寸前まで行っていったんではナイカ、ということを言っておるんですがな。危ないと思ったら撃て、と指示した指揮官がオオゼイ居た、というではナイカ、ということです。(大阪弁)
中谷防衛大臣
事実として5年間の活動中に1発の発砲もなく、立派に任務を遂行した、ということでございます。(中略)国連の決議による国際社会の安全を維持するという日本の貢献でございます。
穀田議員
今回の集団的自衛でそれを広げると、それが危なくなる、ということを私は言っておるわけです。
安倍首相
イラクでは自衛隊は正しい判断をし、相手を死傷することなく、またこちらも死傷者を出すことがなく、帰ってきたわけでございます。今後も自衛隊が正しく訓練をし、周辺事態においても同様の正しい行動が出来るであろう、と言っている訳でございます。
穀田議員
集団的自衛の前提としてホルムズ海峡機雷掃海が例に挙げられるので次にこれに移ります。機雷掃海は武力行使に相当するのか、他国の解釈を知りたい。
岸田外務大臣
機雷掃海は戦闘地域で行われるものでなく、受動的・限定的行動であると解釈できます。
穀田議員
後ろから貰ったペーパーをつかって一般論を読んだらあきまへんで。機雷掃海を受動的・限定的行動であるという国際法はないわけです。
安倍首相
受動的・限定的行動というのは日本の憲法的関係から言っているのであって、他国は集団的自衛権を行使している訳ですから、受動的・限定的行動であることを言う必要はないわけです。
穀田議員
米海軍では機雷戦を防衛的機雷戦と攻撃的機雷戦に分けて考えています。
中谷防衛大臣
相手によってすでに敷設された機雷に対する作戦は防勢的機雷処理であって攻勢的機雷処理と区別されます。
穀田議員
米軍はいずれの機雷戦も戦争行為として位置付けているんです。機雷の除去も戦争行為であって、能動的作戦ではないから受動的・限定的だ、という解釈は通用しない、ということです。つまり戦争に発展する可能性があるのではないか、と。
安倍首相
機雷の除去にもいろいろあるわけです。米国の場合は、機雷を除去して戦闘艦が入っていくことを考えている。しかしホルムズ海峡では事実上の停戦合意がなされていた状況です。集団的自衛権の行使にあたるけれども、実質上の停戦が成り立っているところで危険物を除去する、ということは受動的・限定的であろうと。
穀田議員
相手国から見れば、受動的・限定的ということはないのではないか。米軍は攻撃を受けることを前提として行動している訳です。最近も機雷戦によって紛争がエスカレートした事例があるではないか。1984年に米軍のフリゲート艦がイランの敷設した機雷に触雷して、米軍とイランの戦闘がエスカレートした実例があるのです。

※穀田恵二議員は1947年生、衆議院8期、日本共産党国会対策委員長、常任幹部会委員。

結局、ここで共産党が論点としたいのは、日本の集団的自衛権の行使が受動的・限定的だと言っても、実際には戦争に巻き込まれてエスカレートするのではないか、ということです。これは共同抑止が破れた場合には戦争に巻き込まれる、という危険性を指摘しているわけで、集団的自衛を否定するためには正しい論法です。しかしこの共産党の論旨を敷衍すると、個別的自衛による抑止に頼る以外なくなり、核武装を含む戦力増強を正当化することになります。つまり北朝鮮と同じ自力更生路線です。まぁ、共産党としては政権奪取のあかつきには個別自衛権に基づいて赤軍を大増強するでしょうから、一応の論旨は通っています。しかし非‐共産主義者の一般国民としては迷惑な話です。それにしてもこの遣り取りは、一種の予定調和的な堂々巡りではないのでしょうか。だれが馬鹿で、だれが馬鹿の振りをしているのでしょうか。

投稿者 : 山内康英